宗教新聞について


平成18年3月20日


 今の天皇制度を考える上で、あまり語られないが意外に重要なのは江戸時代の庶民の動向だ。『東海道中膝栗毛』にあるように、庶民は伊勢神宮にお参りした後、京都に行き、天照大神のご子孫がいらっしゃる御所の砂をもらって帰っていた。全国津々浦々から、一生に一度は伊勢参りをしようと、みんなでお金を積み立て、代表者がお参りする。文政十三年(一八三〇)には、わずか五カ月間で四、五百万人にも上り、実に国民の六?七人に一人が来たことになる▼徳川幕府は朝廷の統制を企て、宗教的権威や叙位任官権、元号を変える権限を奪ったが、なぜか庶民は幕府より朝廷が上だと思っていた。幕府の失政や飢饉があると、御所に押しかけて訴える「御所千度参り」がはやり、天明の飢饉の時には四、五万の群衆が御所の周りを回ったという。それに対して御所は、炊き出しをしたり、幕府への取り次ぎをしたりしている。すると、庶民にとっては天皇様が言ったことで救いが来たとなる。政治活動なら幕府も弾圧できるが、天皇を神様として拝んでいるだけだというので手が出せない▼上方では浄瑠璃や歌舞伎で天皇を題材にした劇が出てきた。近松門左衛門も心中物だけでなく天皇物で有名で、庶民が天皇を助けたり、皇子が活躍したりするのを、大坂市民の七、八割が見たという▼信仰心から始まった伊勢参りは、江戸中期になって物見遊山の色合いを強め、江戸後期になると世直し的な社会的運動へと変質し、かつてない盛り上がりを見せる。幕府の力が弱まる中、庶民が期待を寄せたのが天皇で、そのエネルギーが武士による討幕運動を後押しすることになる。

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